HOME | 炭鉱 | 石炭の利用 | リサイクルの考え | 製品紹介 | 販売 | お問い合せ 
  
日本唯一の炭鉱
採炭の様子
釧路石炭の歴史
石炭豆知識
石炭利用状況
石炭の思い出
リンク集
石炭の利用
燃やす
石炭グッズ
石炭灰
リサイクルの考え
事業概要
リサイクルの意義
再利用の可能性
リサイクル状況
協力団体
実施団体
マスコミ掲載履歴
コラム私にもできるリサイクル
製品販売
石炭の思い出
あなたにとっての 「石炭の思い出」ってなんですか?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
赤々と燃える石炭ストーブですか?
作った雪だるまの目にしたことですか?
煙突掃除のことですか?
あの日・・あのときの石炭の思い出を 一緒に語りましょ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
たくさんの思い出投稿ありがとうございました!
応募総数1011通(2004/12/15〜2005/1/15)
その中から 何通かを選んでご紹介させていただきます。
尚、選考及び抽選の結果以下の方々が受賞しました。
おめでとうございます。
廣島様 北海道
亀山様 北海道
山村様 滋賀県

・10代の方の石炭の思い出 ・20代の方の石炭の思い出
・30代の方の石炭の思い出 ・40代の方の石炭の思い出
・50代の方の石炭の思い出 ・60代の方の石炭の思い出
・70代の方の石炭の思い出


■10代の方の石炭の思い出

今はいない北海道の田舎のおばあちゃんのうちで、昔石炭を使っていました。遊びに行くと手伝いをさせられいやでした。手が黒くなるし落ちないし。でも、おばあちゃんのいないいまとなっては、それもなつかしいおばあちゃんの思い出です。あのやさしかったおばあちゃん。石炭の明かりと暖かさは、私のおばあちゃんの明るさと暖かさです。

小学校3年生まで釧路に住んでいました。低学年のころ、見学で石炭の資料館のようなところに行ったのを覚えています。入口かどこかに大きな黒い石の塊のようなものが置いてあって触って先生に怒られた記憶があります。トロッコもなんだか楽しそうだなぁと思いました。釧路に住んでいたといってもストーブはもう石油でしたしあまり石炭は身近に感じられなかったのですがあの見学以来親しみが持てました。今でも良い思い出として心に残ってます。釧路を離れた後色々な街に住みましたが、やはり1番好きなのは釧路です。ニュースで「太平洋炭鉱が閉山する」というのを聞いたときはとても寂しく思いました。今は「釧路コールマイン」になられたんですね。採炭は続いているということで少しほっとしてます。私にとっては、やはりまだ太平洋炭鉱の記憶が強く残っていますし、危機はあると思いますがこれからも「日本最後の炭鉱」としてできる限り頑張ってほしいと思います。

小さいころ一度だけ行った事のあるおじいちゃんとおばあちゃんの家には石炭ストーブがあって、石炭が山ずみになっている所で遊んだ事を今でも覚えています。。

ゲーム内での資源や、アニメで見た程度ですが、あんな石のようなものがエネルギーに変わるなんて不思議です。

私は一回だけ蒸気機関車に1年前に亡くなったひぃじぃちゃんと、ひぃばぁちゃんと一緒に小さい頃一度だけ乗ったことがあります。ひぃじぃちゃんが私は幼稚園にあがったばかりのわたしに蒸気機関車のことをたくさん教えてくれました。近くまで見に行かせてくれました。ひぃばぁちゃんは、昔の石炭のことを語ってくれたような気がします。もう一度のってみたいのですが、うちの近くの地域に一カ所だけありますが、のりにいく暇がなく残念です。もぅ一度昔に戻って大きくなった私にまた熱心に語ってもらいたいです。
▲ topへ
■20代の方の石炭の思い出


 小学校二年生で転校した学校は、築ウン十年の古い二階建ての校舎だった。なんせ隙間風だらけ、トイレ・水呑場の水周りは一階にしかなかった。 そんな校舎で暖房施設は当然、石炭ストーブ。朝、当番の人が用務員室から石炭を運び、授業の合間に先生が石炭をくべ、空気窓を調節し管理していた。 石炭ストーブ自体、こども心に楽しいものでしたが一番の楽しみは蒸発皿で暖めた給食のホットミルク!!三時間目後の休み時間に運んできた給食の牛乳を蒸発皿いっぱいに並べて用意していました。 ストーブの周りだけが暑い教室の中でホットミルクはたまらなくおいしかったです。もちろん給食は温かいものでしたが・・・。 その二年後には校舎は鉄筋へと建替えられ、私の生活に石炭ストーブが登場することはなくなってしまいましたが、一年ちょっとのあの古い校舎とストーブは忘れることのできない思い出です。 

ひんやりした石炭室の空気、石炭のにおい。そこに立つセーラー服の私。私の通っていた中学校は、暖房が石炭ストーブだったので、日直は朝早く登校し、石炭室から石炭を持ってきて、教室のストーブをつけていました。20代で、石炭ストーブの経験があるのを、珍しく思う人もいるけれど、当時の私は、あこがれの彼との日直の日を楽しみにしていたものです。彼と軍手をはいて、一緒に1つの石炭缶を持って、「重いねー。」なんていいながら、朝日があたった海の輝きが見える階段を上がって、誰もいない教室へ行く。澄んだ空気の中、ストーブをつける彼、段々と暖かくなっていく教室。今は遠くなってしまった時間。今は遠くなってしまった故郷。でも、あの石炭ストーブの暖かさは忘れられません。

おじいちゃんの手を思いだします。おじいちゃんの手は厚くて堅くて爪などボロボロでした。その手は夕張の炭鉱で働いていたからです。石炭といえばそのおじいちゃんの手を思いだします。

田舎の実家にかえるといつもお風呂石炭をいれたわかしていました。いまはもうがすになってしまったけど。あの石炭の燃えるなんともいえないにおいわすれられません

幼稚園のころ、教室には石炭ストーブがありました。どんなに寒い日でも皆が毎日交代で先生と一緒にバケツを持って外に石炭を取りに行きました。そうしてあったかくなったストーブのまわりには、まるでペットのいるかごに興味を持つかのようにみんなで取り囲んでわいわい喜んでいました。今はそんな光景もすっかり消えてしまい、なんだかさみしい気もしますが、自分の中ではとってもいい思い出です。

小さい頃は石炭ストーブでした。朝とても寒いときに、バケツ1杯の石炭を運んで火を入れてくれた父の背中を思い出します。石油とは違った柔らかい暖かさが今でも懐かしく思います。ストーブの上に学校に行く前にアルミホイルで包んだ芋を置いていっておやつにしたこともあります。

小学校1年のころ、私の学校はなぜかまだ石炭ストーブでした。火が弱くなると、交代で石炭を入れる係りが顔を真っ赤にしながら補給しなければいけませんでした。授業中でも立っていって石炭を入れるのですが、授業中立って歩けるというのが今じゃぜんぜんたいしたことじゃないのに、うれしかったのを思い出します。 石炭には思い入れがありました。おじいちゃんは炭鉱マンでとても腕の良いその地域では名の知れた人っだたようです。それが自分でも自慢だったようで私をひざに抱いては、決まってそのころの話をし、壁に誇らしげに飾られた表彰状、大きな石炭の置物、彫る道具であった、つるはしなどを毎回説明してくれたものでした。そんな祖父を誇りに思っていた、尊敬のまなざしで見ていたもう帰らないあのころのことを思い出します。祖父はその後何年か後になくなりましたが、私のうちには祖父の形見として、大きな石炭の置物が誇らしげに飾ってあります。たまにピカピカに磨いてあげながら・・・

「海底炭」の思い出は尽きません。物置の石炭庫・デレッキ・じゅうのう・実家のストーブと風呂釜は石炭でした・炊きつけと丸めた新聞紙。通風孔は最初上だけ全開にして、石炭に火が着いたら下の通風孔の加減で日を調整したものですね。オキになった時の独特の匂いまで思い出されます。そして平成11年まで北海道遠軽高校もルンペンストーブで、近くだけ常夏状態で、離れるとクソ寒かった。休み時間になると必ずストーブに当たっているスカートやズボンから焦げたにおいがしたり、たまに通風孔の調節に失敗して「ボンッ!」と暴発。けだるい雰囲気を吹っ飛ばされることは日常茶飯事でした。そして、その強力な火力は昼休みになると教室のグリルと化していました。アルミを引いて餅を焼いたり、蒸発だらいの中にレトルトカレーを入れたり、一度だけラム肉とモヤシを持ち込んでジンギスカンをやったのですがこれは匂いが残ってしまい先生にばれてこっぴどく怒られました。今ではいい思い出です。 煙突掃除も必ず家族総出でやりました。家中に新聞紙を敷いて慎重にホーローの煙突をはずし、専用の長いワイヤーのついた金ブラシで落ちてくるすすをよけながらも掃除したものです。 白く積もった雪に煤がついて汚れるし、外の煙突の下に、黄土色のツララとお地蔵さんっぽい氷旬ができていて、子供心に汚いなあと思ったものです。 あの頃は、何処でも見かけたものですが、FF式のストーブが主流になって、煙突ですらあまり見かけなくなりました。今でも、黒い煙を吐き出している煙突をたまに見かけると、石炭を使っていた頃の我が家と、遠軽高校の教室を思い出します。 

昔祖母が石炭ストーブを使っていた頃の話ですが、小さな花壇を作っていました。
紫陽花や向日葵を育てていました。
祖母は紫陽花を見ながら自由に色を変えれるんだよと言っていました。
子どもの頃の僕はそんな事出来るわけがないと思っていましたが、今年は青だねと言うと青い花が、今年は赤にしようといったら赤い花(紫)が咲きました。子どもの頃の僕は祖母が念じただけで色を変えれるんだと思い魔法使いみたいだと思っていました。
つい最近理由がわかったのですが、花を育てる前に不思議な粉をまいていました。
何か聞いてみると石炭灰と言っていました。
そう、魔法の粉は石炭灰の粉でした。土壌のPH値を調節して花の色を変えていたようです。冬はストーブの上で芋を焼いたりと石炭は身も心も温かくしてくれたなぁ・・と思うようになりました。(それだけとしをとったかな・・)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<ほのぼの賞>
おばあさんが魔法使い?そう思っていたときのかわいい気持ちが伝わりました。


▲ topへ
■30代の方の石炭の思い出


カナダでガイドとして働いていた時に大陸横断鉄道にお客様案内していましたそこで休憩の時、お客様から、『ガイドさんみて」とひとつの黒い硬いものを差し出しました最初はなにかさっぱりわかりませんでした。石のようで、木炭のようで困っている私をみてお客さんが「これは石炭だよ」といいました。その方は、長崎の軍艦島というところの炭こうで石炭を掘っていたそうです。私は今まで、石炭というものを知らずにガイドしていました『このあたりは石炭の産地で石炭は、昔の植物が長い時間かけて変化したものです」といっていました。お客様に見せてもらいまして、初めて石炭をみました。それからというもの、ガイドするたびにその黒い硬いものを思い出しました

私の祖母は夕張にいます。小さい時はよく遊びにいって石炭のストーブの上でサツマイモをふかしたり、豚汁とかを作ってくれました。なんか石炭ストーブの方が温かみがあって、いつも食べているものよりもすごくおいしくていつもはそんなにおかわりをしないのに祖母のところに行ったときは、おかわりを何回もしてお腹がパンパンにふくれていた思い出があります。じゃがいももホクホクしていてすごくおいしかったです。でも石炭をさわると手が真っ黒くなるので、父親が寝ているときに顔に炭でいたずらをしたりして遊んだ思い出もあります。なんか石炭のストーブの周りにいるとみんな楽しそうで、石炭ストーブのまわりに座っていろいろな話をして楽しい時が過ごせました。今は石炭を使うところがないので、さびしいですね。石炭はぬくもりが感じられて昔なつかしさを感じるので私は大好きですね。今でもたまに祖母の所に行くとあるので、おもちを焼いたり魚を焼いたりします。おもちもふっくらとしてモチモチさがあって全然違いますね。

はじめまして。石炭といえば、私は幼少の頃を思い出してなりません。おじいちゃんおばあちゃんの住んでいる、冬は氷点下になる町でののんびりした生活。家の茶の間には、石炭ストーブとそれに連結された手製のペチカがありました。朝起床すると、部屋の中が凄く寒いのですが、おじいちゃんが石炭をストーブにくべてしばらく待っているとだんだんと室内が暖まって、ペチカも湯たんぽみたいになります。おばあちゃんは、石炭ストーブの上にあらかじめ乗せてあるヤカンの中がお湯になったところで台所に持っていって、炊事を始めます。そのお湯を少し分けてもらって皆で顔も洗います。ご飯を作ってる間、私は寝ぼけ眼で椅子に腰掛け、その姿勢のままペチカに足の裏をくっつけて、だらしない姿勢をします。それからしばらくすると、だんだん足の裏を伝わってやさしい暖かさを感じて、起きたばかりなのにまた眠たくなります。夜は、石炭で炊くお風呂に入ります。石炭の加減が難しいせいか、しょっちゅう熱いお風呂になって、子供の私にはとても入るのが大変でした。石炭を外の物置からストーブのある茶の間、風呂釜に運んだりもしました。何で、あんな黒くて硬いものが燃えるのか、目の前で見ていても当時は不思議でしょうがありませんでした。

母の実家が燃料店を営んでいました。私が小学校に上がる頃に廃業してしまったのですが、今でも母から配達の苦労をよく聞きます。冬になると特に忙しく、子供たちも皆前掛けをつけ自転車の荷台に石炭をたくさん積んで配達に出たそうです。一日手伝いをすると指の爪の間にまで石炭かすが入り黒くなってしまい、銭湯のしまい風呂に行って一生懸命洗ったこと、大晦日はぎりぎりになって買いに来るお客さんがいるので夜中まで店を空けていたことなど、話はつきません。子供で体重が軽いので、荷物を荷台に積むと前輪が浮き上がりそうになるのを必死でおさえて山道を走るのが一番大変だったようです。当時の母の家族写真をみると、お店の前で子供たちがお揃いの店の名前入りの前掛けをかけずらっと並んでいます。私が子供の頃にも大分扱い量は減っていましたが、それでも石炭の販売はまだしていました。そして母の実家も私の家もお風呂は石炭で沸かしていました。今のようにスイッチひとつで温度が一定になる便利さはありませんでしたが、お湯が冷めてくると「ぬるいよ〜〜」と叫んでくべてもらい、熱くなってくると「もういいよ〜〜」と止めてもらったのはよく覚えています。お風呂に入っていると必ず誰かが外から「お湯大丈夫〜〜?」と声をかけるんですよね。今は再開発で様子はまったく変わってしまいましたが、店先で遊んでいた楽しさ、よく思い出します。家族も多く従業員の人、取引先の人が常に出入りし、楽しかったです。

母親から聞いた話ですが、昔貧乏だったので石炭車が通る線路みたいなところで振動でこぼれ落ちた石炭を拾って持ち帰って燃料にしていたそうです。母だけではなくそれを知っていて他の人も拾っていたそうです。

小学5年くらいの時、通ってた小学校が昔汽車の駅だったと言う噂を聞き校庭をあちこち掘りまくって石炭を発掘するのが、友達同士で流行っていました。実際に石炭があちこちから出てくるから、誰が一番大きい石炭を掘り当てれるか競争してた記憶があります。数人があちこち穴を掘りまくったためあちこち穴だらけでした。そして先生に怒られました。でもそのころは宝の発掘みたいで楽しかった記憶があります。

私の住む県庁所在地の街中の学校の話しですが、昭和50年から53年、学年でいうと1−4年生まで、他の学校は違ってたようですが、自分の通っていた小学校は木造の校舎でストーブは石炭ストーブでした。日直の2人が毎朝、石炭小屋に行ってスコップを使い、バケツいっぱいの石炭を運んでおりました。
火をつけるとき用務員のおじさんが、チョコレートみたいなもの(きっとオガクズの塊か発火剤)に火を付けて新聞と一緒にストーブの中に入れてたり、ストーブの上に水の張ったバケツを置き暖めて床掃除の雑巾掛につかったり、ストーブの周りには給食の牛乳瓶をならべて暖めたり、近づかないように床にビニールテープで縦横2m程の立ち入り禁止区域をつくってあったり・・・懐かしく思い出されます。
5年生になると石油ストーブに変わり石炭の運搬が無くなり負担が少なくなりましたが、スイッチひとつで点火されるストーブというのは、今思うと無機質な暖かさであり、小さい頃石炭ストーブに触れたことによって、火が付き暖まるまでの長い工程、温度の調整、消火等の作業が、火を熾すことの難しさ、火の大切さ、ありがたさを教えられたと、この文章を書くにあたり思い出させて頂きました。
現在では夏はエアコン、冬はファンヒーターが当たり前ですが、小学校の頃に火を扱うという経験は、危険ではあるが非常に大切な事と思います。

今は東京に在住しておりますが、私は釧路出身で実家は現在も釧路にあります。実家の家が太平洋炭鉱の近くで、幼少の頃はよく石炭を積んだ汽車を見たものでした。また、石炭にまつわる思い出としては、夜になかなか寝付けない時に、石炭を積んだ汽車が、「ガタンゴトン・・・」と繰り返し行ったり来たりする音を聞き、いつの間にか寝入っている時のことが印象に残っています。今は帰省しても、当時のような音もすることがなく、少し寂しいのですが、当時の思い出としては今も強く心の中に残っています。

横浜の幼稚園・小学校に通っていましたが、小学校低学年までは冬の暖房といえば、石炭ストーブでした。そうそう幼稚園のときのお昼はお弁当でしたが、石炭ストーブがたかれている間には、朝幼稚園についたときに、ストーブの上やそばにアルマイトのお弁当をおいてお昼までほんのりとあたためておくのが常でした。その日は私の大好きな三色そぼろべんとうでした。ところが、やんちゃなお友達がストーブのそばであそんで、私の赤いアルマイトのお弁当を床一面にひっくりかえしてしました。もちろん私は悲しくてぽろぽろと泣いてしまいました。先生はあわてて、みんなから少しずつおかずをわけてもらって、おひるにそれをいただきました。私はそれを少しのどにひっかかりながらいただいたことを覚えています。でも、私はそのときのことを母にいえませんでした。せっかくつくってくれて申し訳なかったことと、楽しみにしていたのに食べられなかったことと、いろいろな想いが重なってまた泣き出してしまいそうで、とてもいえませんでした。それから石炭ストーブといえば、あかあかと燃える火と独特の石炭が燃えるにおいとともに、あのアルマイトのお弁当のことと、そのときのなんともいえないせつないきもちを思い出します。

私が小学生の時、学校では石炭ストーブを使っていました。毎日交代で、石炭庫から石炭を運ぶ当番がありました。当時は、男子一人と女子一人の2人で行くのが当番の順番でした。その頃の、初恋の彼と二人きりで行けるのがとっても恥ずかしくでも嬉しく想っていた幼い時の初恋の、可愛らしい気持ちを思い出します。石炭ストーブには、いろいろな思い出があります。毎日ストーブの上に、蒸発皿と言う大きなバケツに水を入れてのせていました。その中に、パックの牛乳をパックのまま入れてはホットミルクを楽しんだものです。私にとっては、石炭=小学生だった頃の懐かしい思い出です。

▲ topへ
■40代の方の石炭の思い出


少年時代を炭鉱の町・美唄で過ごしました。秋から冬に移り変わる季節の「冬支度」のことが今でも思い出されます。寒さをしのぐには当時は石炭ストーブしかありませんでした。その冬使う1トンもの石炭を父親と一緒に買いに行き、石炭小屋に用意しておくのです。そして薪の準備。力強く薪を割る父の姿、火を絶やさずにと家族を守り続ける暖かい火。石炭ストーブは私にとってまさに「父親」の象徴なのです。火の調節も難しく、「これが出来たら一人前なんだ」と子供心に思ったものでした。石炭から石油へと移り変わり、火を絶やさずにと気を使う必要もなくなりましたが、今での冬になると今は亡き父の姿が目に浮かびます。時代の流れとともに閉山し、賑わっていた繁華街がどんどん縮小され、学校のクラスも半分以下となったことが今でも印象的な出来事でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<思い出大賞>
「父親」の象徴という言葉、父の背中を彷彿とさせる思い出です。

幼少期、住んでいた町のJR(旧国鉄)の駅には、蒸気機関車が運行されていた。その大きな駅の一角には、機関車運転手の詰所があった。道路に面したその詰所には浴室があり、機関車の燃料の石炭の煤で真っ黒になった運転手達が、浴室から飛び出して、戸外で体中を石鹸だらけにして洗っていた。シャワーなどなかった頃である。道行く人は、その光景を見て、顔をしかめる人、あきれる人、顔を赤くする人、様々な反応をしめしていた。運転手達も、悪びれることなく、笑いながら体を洗っていた。大らかな時代だった。

▲ topへ
■50代の方の石炭の思い出


私の育った”田川市”も石炭で発展した町でした。 父も三井田川工業所にて坑内に入り機械の修理とうの仕事をしていました。 中学生になったころには近くの”ボタ山”に行きまして石炭をひらって売って小遣いを稼いでいたことを機能のように覚えています。 帰りには風呂をたくのに少し持ち帰り毎日の風呂に使っていました。 三井田川の閉山のときは父は石炭の塊の大きい塊を持って帰りました。我が家の宝です。 私たちは石炭のおかげで大きくなり勉強をすることができました。 今 田川に帰りますと人口もへり町中が大変寂しくなりました。 全盛期の時からすると本当に”ゴーストタウン”状態です。 年寄りばかりの町になりました。 若者が働けるところがなくなりましたので皆県外や遠くに働きに出る為です。いまは“ボタ山”にも雑木がはえて昔の面影も薄くなってきました。 エネルギーの革命がなければ私の人生も変わっていたのだろうと思うことがあります。

北陸の出身ですが、まだ小学生のころ蒸気機関車が走っていました。春や夏の休みには家族で大阪や京都、奈良などへ旅行に行く時汽車に乗るのが楽しみで、ホームに着く時の勇壮な蒸気の音わくわくしていました。しかし、走り出すとすぐにトンネルがあります。その前には窓を閉めないと大変なことになり子供たちは開け閉めでおおはしゃぎだった記憶があります。ああいった体全体で喜びを出すようなことが今の子供たちにはなく寂しい気がします。ああいった子供らしい記憶がいろいろある時代を送れたことは今でも宝物だと思います。

もう40年以上になりますか。小学校最後の修学旅行。今では簡単にいける所なのに・・・・。それはそれはもう天にも上る嬉しさだったことを覚えています。当時の交通機関は、鉄道。しかも蒸気機関車!SLです。甲高い汽笛を発し、すさまじいばかりの煙を吐きながら、それは力強く、たくましく走り始めます。存在感ありましたね。今もなおSLが廃れることのない理由でしょうね。車内は窓を大きく開け、はしゃぎまわる子ども達(今の私です。)でもう大変です。しかし、突然真っ暗!そうです。トンネルに入ったのです。圧倒的な勢いで黒煙が猛然となだれ込んできます。あまりに突然のことなので、車内は大パニック。慌てて窓を閉めたにもかかわらず、・・・。(もう手遅れだったのです。)トンネルを抜けて「あっ!!」お互いの真っ黒の顔を見て、それはそれは、みんなで大笑い。SLの強烈な洗礼「オナラ?」だったのでしょうか。・・・もう遠い昔。私の石炭の思い出です。

戦後生まれですが主に石炭ストーブで育った年代です。思い返してみると色々ありますが最も記憶に残っているのは小学生時代の運送方法です。馬車でした。何トン積めるかは判りませんでしたが数トンだったはずです。当時は道路も舗装していなかったところが多く雨後や雪解け道の泥濘では馬が喘いで荷台を引いていました。時々ぶら下がって遊びました。この様な中で今も記憶に残っているのは春先の海霧(ガス)の時期です。最近よりずっと濃く追いかける時に数メートル先の馬車が見えづらくなる程でした。他には焚いた後の灰汁は道路に積んでおいたのですが泥濘に埋めたりしました。坂道では雪解け水が流れるのを塞き止めて水溜まりを作って遊びました。車の通行量の少ない時代でソリももスキーも道路で滑られた時代の話しです。愉しい想い出ばかりではなく馬車から降ろした石炭を小屋に運ぶのは子供たちの役割でした。今より色々なことをさせられましたがこの様なことで体力も勉強以外の智慧も少しは備わった様に思います。煙突掃除の手伝いで手や顔が黒くなったのも今では良い想い出です。この想い出はSLに乗りトンネルを抜けると顔が黒くなった想い出と重なり重なります。力強いドリフトの音は今でも耳に残っています。釜焚きも幾度か体験させてもらいました。子供ながらに釜焚きさんの苦労と誇りを感じました。石炭の暖かさはあばら屋では力強く、家族で囲んでスルメや餅を焼いた食べた想い出を含め愉しいものです。

 ずいぶん前の話になりますが、小学生の頃は京都で過ごしていました。冬の暖房は石炭ストーブでした。ストーブの使用が始まると高学年(6年生)は順番制で専用バケツに石炭を入れる役目が回ってきます。 バケツには学年とクラス名が書かれてあって、どれも均等にスコップで入れてゆくのです。市内の学校で各学年が2から3クラスでしたから比較的少なかったと思います。 それで低学年のクラスには高学年の生徒が石炭の入ったバケツと焚付け用の木片や古新聞を配達するのです。 ストーブ当番は輪番制で男女がペアになっていましたが、何故か殆ど男子生徒の役目になっていました。昔のせいかも知れませんが安全面において寛容だったのか高学年になると、火を付けるのは生徒が行っていました。でも、それはそれで楽しいものでした。新聞紙を少し丸めてストーブに入れ、木片をその上に載せ、マッチで新聞紙に火を付ける。木片が燃え始めるのを確認していよいよ石炭を小さめのスコップで入れます。 中には不器用な子も居て、上手く点火できないときもあります。 石炭ストーブにはそれなりの魅力がありました。それは給食の時です。当時の給食は副菜に食パンが3枚、そして脱脂粉乳、これは不味かった。でも、赤々と燃えているストーブの外面に食パンを押し当ててパンを焼くのです。そうする事でマーガリンがパンによく馴染んでそれなりに旨かったのです。でも女子生徒は不衛生だとか何とか云ってパンをストーブで焼く子は居なかった。これも男子生徒ばかりでしたね。 一日が終わるとストーブ当番は後始末。石炭灰をきれいに掃除してバケツに掻き集め、完全に消化確認をしてから灰を集積場へ運びます。 バケツを清掃し翌朝に備えます。今思うと昔の冬は寒かった。今のようにモノの豊富な時代ではありませんでしたから。 石炭を目にすることが珍しい今日、石炭に昔日の思いを巡らせながらストーブと暖かな炎を懐かしく思い出しました。 雑文で申し訳御座いません。  

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<釧路賞>
生活に密着した思い出です。温めたパンの上で溶けていくマーガリンが
目に浮かぶようです。

小さいときはどこの家も石炭ストーブでしたよね。今のように、火の見えない、環境に配慮した暖房機ではなかった?分、とてもアナログでした。火を焚きつけるまでの苦労、石炭の黒さ、それが燃える音やにおい、真っ赤になって燃えている石炭の力強さなど、今でも実感を伴って思い出します。考えてみれば、そういう思い出は今の子どもたちや若い人にはほとんど経験できないことなのでしょう。かわいそうだと思います。スイッチ一つでいつのまにか暖房機が働きだして家が暖かくなってゆく時代と、あのころの、外出して帰ってきて、家族みんなで「寒い寒い」といいながらストーブに火をつけ、石炭をくべて暖まるのを手をこすり合わせながら待っていた思い出とを比べると、あのころの方が心が温かだったような気さえするのは、私も年を重ねたからかしら…。この企画で、久しぶりに「ストーブ」を思い出させていただきました。ありがとうございました。

中学時代、冬の暖房は石炭でした。1クラスにバケツ1杯の配給で1日分でした。寒さがキツイ日は足りなくて、寒い思いをしましたが、クラスのガキ大将が暖かい日にあまった石炭を天井裏に隠して、寒い日にそれを使っていました。クラス一丸となって、学校に内緒にしていましたが、ある日石炭の重みで天井が落ちてしまいました。もちろん学校からは怒られましたが、ガキ大将の気持はいまでも暖かく心に残っています。石炭と聞くといつも思い出されます

▲ topへ
■60代の方の石炭の思い出


小学4年か5年生の頃でした。職場の見学が火力発電所でした。駅の近くにあり構内まで線路が引き込まれ、貨車に光るダイヤが詰まれていました。発電所の中では石炭を投げ入れる人が熱さで汗が出るので水分と一緒に塩が置いてありびっくりしました。現在なら自動で補給できあんなに熱い思いをしなくてすむのにと時々思い出します。それから40年後、ある病院に同じく入院していた方から昔話を聞く機会がありました。もうとっくに退職されお子様やお孫さん達もやさしく楽しい老後を送っておられましたが、若い頃は炭鉱の坑内で石炭を運び出す仕事をしていたそうです。女性でも上半身は裸、真っ黒になって働いたそうです。ご主人を亡くしお子さんを育てるのに一生懸命だったとのこと。その後遺症で今こうして足と腰が痛むといっていました。石炭と共に生きた人々は皆苦労をされたのだと石炭が日常から遠くなりつつ今日忘れられることなく語り継いで行きたいと思います。

私の妻から聞いた話です。 妻は北海道でも有数の積雪の多い地方で生まれ育ちました。 小さいころは家の燃料は山から取ってきた薪。 小学校に入学するとやっと火力の強い石炭ストーブにあたることができたということです。 真っ赤に燃える石炭ストーブのものすごい熱さがマイナス何度という強烈な寒さの中で最高に頼りになる存在だったとか。校生になる休み時間はストーブの回りに集まって話がぽつりぽつりと展開したとか。 「冬のソナタ」の初めの回の高校生の様子を見て、私たちの高校時代とそっくりよ!とうれしそうに感慨深げに妻は話しておりました。東京育ちの私は石炭ストーブのまわりで真っ赤にほっぺたを染めて恥らいながらクラスメートと話していた様子がうらやましいです。

終戦となってまもなく、田舎に疎開していた私は、父と一緒に東京に引き揚げることになった。 やっと乗れた蒸気機関車は超満員。暑さでどの窓もトアも開け放しであった。しばらくすると「トンネルだ 」の大きな声に、窓を閉める余裕もなく社内は煙で真っ黒となった。「凄かったなあ」・・・あの時。

 石炭と言っても、私の場合は九州の石炭である。今、住んでいる北九州市の家も、元、日炭高松炭鉱の上にあり、すぐ裏側のボタ山は未だに健在である。 石炭の思い出は、かれこれ四十五年前に遡る。大分県の中津市に住んでいた私は、高校二年に進級する時、月謝の滞納が大分あったのに加えて、教科書を買うお金が工面出来ず、とうとう休学止むなしとなってしまった。数日、家でぶらぶらしていたが、隣の叔父さんのお世話で、筑豊炭田のど真ん中にある田川市の製麺所へ奉公することになった。 当時の炭鉱はピークを過ぎたとは言え、石炭は黒ダイヤと呼ばれており、まだ産業の中心であった。あちこちの炭住にある商店や食堂などに、玉うどんを配達するのが私の仕事であった。炭鉱は坂の町、重い荷物を積んでの配達はしんどいものであった。朝早く起こされ深夜まで働く丁稚奉公は辛かったが、なんとか一年を乗り切って復学することが出来た。 石炭そのもの、練炭、豆炭、微粉炭等々見ることもほとんどなくなったが、折にふれ懐かしく思い出される。

▲ topへ
■70代の方の石炭の思い出


1.田舎の汽車で通学している時、機関車の吐き出す黒い煙で、カッターシャッツの襟がいつも黒くなって困って居ました。
2.学校の石炭ストーブで、何時も黒い煙が出て、授業中に煙たくて、困った事が良い思い出です。
3.朝、学校で石炭ストーブに火をつける当番のとき、なかなか火が着かなくて。友達と一緒に苦労した事が、良い思い出です。

戦後の機関車での通学で何時も超満員デッキにぶら下がり危険一杯、何時も鼻の穴は真っ黒でした
▲ topへ

【釧路在住 Uさん(50代男性)の思い出・・・】

 私は小学5年(昭和38年)の夏まで三井芦別炭鉱で育ちました。当時私の家(炭鉱の長屋です)の床の間には石炭(塊炭)で彫られた熊の置物が飾ってありました。大きさは胴体が30センチを超える位あり、台座も高さ10センチ、長さ40センチ位の長方形に断裁された塊炭で作られたもので、持ち上げると冷たくずっしりとした重量感が今でも思い出されます。製作者は私の父ですが、釧路へ引っ越す際に知人にあげたそうです。今思えば石炭がもてはやされた時代を誇示するような置物だったかもしれません。 昭和38年というとエネルギー資源が石炭から石油に転換され、炭鉱の閉山も相次ぎ、暮らしぶりも豊かではありませんでしたが、隣近所で助け合いながら暮らしていたように思います。