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●第11回 炭坑近くの農家に生まれて
(2006・3・3発行)はこちら>>
●第10回 太平洋炭鉱は自分の誇りであり、人生のすべて
(2006・1・30発行)はこちら>>
●第9回 3代続く炭鉱暮らし、祖父は友子の親方(2006・1・1発行)はこちら>>
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●第7回 炭鉱の町に生まれ、炭鉱の町で成長(2005・10・30発行)はこちら>>
●第6回 機械化が進み、活気に満ちていた時代
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●第5回 入社から退職まで、36年間を通気一筋
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●第4回 顔を出すだけのつもりだった太鼓同好会
(2005・7・31発行)はこちら>>
●第3回 地質によって大きく異なった採炭環境(2005・6・30発行)はこちら>>
●第2回 電気担当は、「縁の下の力持ち」(2005・5・30発行)はこちら>>
●第1回 辛く厳しい職場も、今では懐かしい思い出(2005・4・30発行)はこちら>>
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◎第4回 釧路コールマイン 元・保安監督室長 若松寛さん(55)
最終学歴はなんと炭鉱附属の専門学校
私が太平洋炭鉱に入社したのは昭和43年のことでしたが、
直前に卒業した学校は、昭和39年に太平洋炭鉱が
技術者の育成のために設立した「鉱山鉱業専門学校」でした。
私は2期生でしたが、すぐに石炭産業が斜陽化し始めたため
開校からわずか13年後の昭和52年には廃校になってしまいました。
ある意味、生え抜きの「炭鉱マン」だったと言えるかもしれません。
入社してすぐに配属されたのは
前々回の高橋さんと同じ電気担当でした。
その後、およそ30年間にわたって電気畑一筋でしたが
太平洋炭鉱が閉山になり、新たに釧路コールマインとして
生まれ変わる直前に試験を受け、保安担当室長になりました。
今年1月に退職するまで、コールマインでもそのまま
保安担当室長として勤務しました。
顔を出すだけのつもりだった太鼓同好会
入社してしばらく、私には趣味らしい趣味というものがありませんでした。
ところが数年ほどたったある日、上司が私にできたばかりの
「太鼓同好会」に顔を出してくれと言うのです。
太鼓の好きな職員が集まって会を作り
「炭鉱マンの男らしさや心意気を表現できる」として
会社としても全面的にバックアップし始めていたものでした。
そのため半強制的に各職場から数名ずつ
適任者を出そうということになったらしいのです。
日頃から世話になっている上司から
「俺の顔を立てると思って、顔だけ出してくれればいい」
ということでしたので、言われた通りに顔だけ出して
話を聞いたらそのまま帰るつもりで練習場所へ行きました。
ところが、練習場所では太鼓を叩いているどころか
宴会場のようになっており、
すでに酒盛りが始まっていたのです。
「まあまあ、そんなところに立ってないで。こっちへ来て一杯やれや」
そんな甘い言葉(酒)に誘われて、
ついフラフラと座ってしまったのが
その後30年にわたって付き合うことになる
太平洋太鼓との出会いでした。
仕事より夢中になった太平洋太鼓の魅力 当時は全国各地で「新しい郷土芸能」としての
太鼓団体の創設や旗揚げがブームとなっており
ここ釧路市でも相次いで「蝦夷太鼓」や「自衛隊太鼓」などが
発足してきました。
まったくの素人ばかりの集まりでしたので
バチさばきから曲作りまで、すべてが苦労の連続でしたが
それでも「出炭太鼓」や「躍進太鼓」、ゼロ災害を目指した「ゼロ」など
いかにも炭鉱らしい、炭鉱ならではの勇壮な曲を数多く生み出しました。
もともと、たった5人で発足した同好会は
最盛期でもメンバーは10人ほどでした。
現在は現役の炭鉱マンが7人ほどであるのに対し
OBや家族を含めた一般市民が十数人、
さらにはジュニアである小中高生も17、8人と
今では総勢40名近い大所帯になりました。
演奏は、地元の釧路市や道東各地のイベントなどで
日頃の稽古の成果を披露させていただくとともに
最近ではモンゴルや中国での公演にも招待されました。
また、今も多くの炭鉱マンたちの子供が通っていることから
釧路コールマイン近くの小中学校において、
太鼓を打つ体験学習や公演にも招かれるようになりました。
すでに太平洋炭鉱という社名がなくなってしまった現在、
OBとして、せめて太鼓に付けた太平洋の名前だけでも
末長く残していきたいと思っています。
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中国公演の様子 |
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モンゴルでの公演の様子
(記事より) |
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モンゴルでの公演の様子 |
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