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(2006・3・3発行)はこちら>>
●第10回 太平洋炭鉱は自分の誇りであり、人生のすべて
(2006・1・30発行)はこちら>>
●第9回 3代続く炭鉱暮らし、祖父は友子の親方(2006・1・1発行)はこちら>>
●第8回 開戦により徴用、筑豊の田川炭鉱へ(2005・12・1発行)はこちら>>
●第7回 炭鉱の町に生まれ、炭鉱の町で成長(2005・10・30発行)はこちら>>
●第6回 機械化が進み、活気に満ちていた時代
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●第5回 入社から退職まで、36年間を通気一筋
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●第4回 顔を出すだけのつもりだった太鼓同好会
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●第3回 地質によって大きく異なった採炭環境(2005・6・30発行)はこちら>>
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◎第8回 元・太平洋炭鉱マイナー長 国沢哲さん(78)
開戦により徴用、筑豊の田川炭鉱へ
昭和2年、旭川市で生まれたわたしは昭和14年、現在の釧路町別保にあった
太平洋炭鉱別保坑に就職した父親とともに釧路へきました。
小学校を卒業したら、わたしも父親と一緒に炭鉱で働こうとは考えていましたが
昭和16年の卒業と同時に、国策により父親ともども何と九州は筑豊炭田にあった
田川炭鉱に徴用され、そこで終戦まで働きました。
当時の炭鉱はどこでもそうでしたが、掘った石炭を坑外に運び出すためには
トロッコを馬に引かせていました。
ある時、はずみのついたトロッコに馬が後ろ足を轢かれ、
骨折してしまったことがありました。
現在ならば、すぐに薬殺するのでしょうが
そんな薬が手に入る時代ではありませんでしたから、
馬は治療されるでもなく安楽死されるでもなく
近くの草むらで死ぬまで、何日も放置されていました。
わたしもまだ子供でしたから、子供心にも
「早く楽にさせてやればいいのに」と不憫に思ったものです。
敗戦により帰釧、ふたたび別保炭鉱へ
昭和20年の敗戦により、ようやく父親と一緒に
別保坑へ戻ることができました。
わたしは18才になっていました。
田川ではまだ一人前扱いされなかったため、
採掘した石炭をトロッコで搬出する運搬係をしていましたが、
別保坑へ戻ってきて、初めて採炭の仕事に就くことができました。
何と言っても採炭係は坑内作業の花形ですから、
これで自分もようやく一人前になれたんだなと興奮しました。
ただ、炭層の薄い別保坑は昭和25年に閉山してしまうのですが
その前から徐々に閉山の下準備が進められていたため、
採炭係のわたしは太平洋の本坑と別保坑を、毎日のように
汽車で行ったり来たりを繰り返していました。
やはり、閉山後の移動に向けての準備だったのでしょう。
機械化と福利厚生の進んでいた本坑
別保坑が閉山されてからは、正式に本坑の採炭係となりました。
当時は坑内へ向かう斜坑が3本もありましたし、
社員も全部で5000人近くはいたんじゃないでしょうか。
かなり後になって夕張の「石炭の歴史村」へ行った時、
閉山前に使用していたという掘進の機械や
採炭用のドラムカッターが展示されていましたが、
太平洋炭鉱よりも旧式で小規模だったことに驚きました。
三菱の大夕張坑や北炭夕張坑などは、太平洋よりも
大きな炭鉱だとばかり思っていましたから、
当時としてはかなり最新式で大規模な機械化を
太平洋は果たしていたのでしょう。
昭和27年に結婚し、翌年にはできたばかりの望洋団地の
社宅に入ることができました。
風呂こそ付いていませんでしたが、トイレが水洗なのには驚きました。
この当時に水洗トイレなんて、太平洋の社宅ぐらいのものでしょう。
暖房用の石炭が無料で支給されるのは当然(?)としても
電気や水道代まで社宅は無料でしたから、
後になって自宅を建てる時に妻に反対されたほど、
社員に対しての福利厚生は手厚いものがありました。
炭層のきわめて薄い2番層に四苦八苦 この頃から、太平洋炭鉱では新たな炭層を開発し、
社運を賭けて「2番層」と呼ばれた炭層での採炭を始めました。
しかしこの2番層は、炭層の厚みがわずか1メートルほどしか
なかったため、採炭には実に苦労しました。
上下の岩盤を崩さずに石炭だけを掘ろうとすると、
切羽まで何十メートルもある坑道を、ほとんど四つん這いになって
進んでいかなくてはならないからです。
作業服が汚れるのはいつものことですが、
すぐに肘や膝の部分がすり切れてしまうため、
家内は毎日洗濯の後につぎあてをしなくてはなりませんでした。
落盤や崩落などの事故も多かったことから、
本当にこの2番層には手を焼いたものです。
突然の掘進係への配転 昭和45年、それまでの採炭係から突然、掘進係への異動を命じられました。
当時はロング長として、50人あまりのチームを率いて作業をしており、
掘進でもマイナー長ということで多くの部下を預かりましたが、
初めての部署でしたから、仕事を覚えるまでは人知れず苦労しました。
普通の職場と違い、職長と呼ばれるチームリーダーは
まさにチーム全員の命を預かっているわけですから、
その責任はとてつもなく重いと言えるでしょう。
昭和30年ごろまでは死亡事故も結構多かったことから
毎朝送り出してくれる家内も気をもんだことでしょうし、
昨日まで冗談を言い合っていた同僚が事故で亡くなった時などは
本気で転職を考えたこともありました。
わたしは父親を見習って炭坑夫になりましたが、
自分の息子には、炭鉱だけは入ってほしくないと思いました。
それでも結局、昭和57年に55才で定年退職するまで大過なく
事故にも遭わずに過ごすことができました。
まさに幸運だったと言えるでしょう。
思えば40年以上にも及んだ炭鉱生活において
家族にも同僚にも健康にも恵まれたわたしは、
この上なく幸福な男だと言えるのかも知れません。
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