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●第10回 太平洋炭鉱は自分の誇りであり、人生のすべて
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●第9回 3代続く炭鉱暮らし、祖父は友子の親方(2006・1・1発行)はこちら>>
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●第6回 機械化が進み、活気に満ちていた時代
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◎第9回 元・太平洋炭鉱 掘進係・労働組合 田中 義昭さん(65)
3代続く炭鉱暮らし、祖父は友子の親方
昭和15年、わたしは現在の釧路町別保にあった
太平洋炭鉱別保坑の炭住(炭坑住宅)の長屋で生まれました。
大正時代から炭鉱夫を勤めていた祖父は太平洋炭鉱の前身である
木村組炭鉱の時代か ら
現在の春採坑で採炭をおこなっており、
別保坑との合併によってこちらへ移ったのだそうです。
もちろん、父親も別保坑で採炭作業に従事していました。
当時は戦時増産による好景気で、どこの炭鉱でも非常に活気に満ちていたほか
人手不足の状態が続いていたため、友子の親方として名の知られていた祖父は
新しい作業員を集めに空知から満州まで出かけて行ったそうです。
その間、炭鉱へは祖父のかわりに祖母が出ていました。
当時は女性の坑内作業も普通に行われていたのです。
よく祖父は晩酌などで機嫌が良いときに「俺が一声かければ
日本中から200人や300人の子分がすぐに駆けつけるんだぞ」と笑っていました。
まだ子供だったわたしは「ふーん」と話半分に聞いていましたが、
確かに毎年正月になると何十人もの人たちが新年の挨拶にやってきましたし、
祖父に連れられて夕張へ行った時などは
炭住街の入口の両側にズラリと人々が並んで出迎えてくれたのには驚きました。
絵柄は忘れましたが、祖父の背中には二の腕にかけて鮮やかな刺青がありましたし
たんすの引き出しには立派な長ドスがいつもしまってあったとかないとか・・・。
そんな祖父が亡くなった時には、本当に全国各地から200人あまりも
「昔、世話になった」という人たちが参列してくれました。
別保坑の閉山により春採坑へ
昭和20年の敗戦後も別保の炭住にいたわたしは
そのまま父とともに別保坑で炭坑夫になるつもりでいましたが
昭和24年にこの別保坑は閉山となってしまったため、家族で
春採坑の炭住へと移りました。
中学を卒業後、多少ほかの仕事にも就きましたが
結局昭和34年、19才の時に太平洋炭鉱へ入りました。
最初は採炭係としての採用でしたが、すぐに掘進係へ異動になりました。
それまで人手でおこなっていた採炭作業が、
機械化により人員が余ったためです。
結局、そのまま10年あまりを掘進係として過ごしました。
作業員の投票による組合役員に立候補
昭和45年、30才の時に労働組合の専従員選挙に立候補しました。
採炭や掘進など、各職場の代表として立候補し
全作業員の投票によって決まるのが組合の専従員です。
社内での代表を選ぶといっても各立候補者がそれぞれに公約を掲げ、
立ち会い演説会なども行われる本格的なものでした。
かつては炭鉱の付近に社員のための専用映画館が何軒かあり、
この映画館で上映する1本目と2本目の幕合いなどで演説会が行われたほか、
印刷屋に注文したポスターを炭住街に貼ったり
選挙カーを仕立てて回ることもあったといいます。
さすがにわたしの頃にはそこまで本格的ではありませんでしたが、
始業時に坑内作業員が現場に向かう人車乗り場の前に立っての演説は行いました。
幸い、初めての選挙では当選することができましたが、
組合専従員の任期は1年限りのため
こうした選挙を毎年ゝ繰り返さなくてはなりませんでした。
9度目の選挙に落選、再び掘進の現場へ 昭和53年、わたしは9度目の選挙に落選してしまいました。
原因はわたしの実績が一般受けする待遇の改善などより
福利厚生に力を注ぎすぎたためと思っています。
すぐに職場は元の掘進係へ戻りましたが、勉強して昇進試験を受け
3等級の主任、建築現場でいう現場監督の立場になりました。
そのまま現場に残り、経験と昇進試験をクリアしていけば
やがて区長から係長というのが坑内作業員としての出世コースなのですが、
主任に昇進してほどなく、突然、子会社への出向を命じられました。
坑内で使用する機械の保守点検や施設の営繕を担当する会社で
まったく未経験の営業部長というポストに就いたのでした。
畑違いの営業活動にやり甲斐を見いだす 社員はみな炭鉱の関係者でしたから
親会社の与えてくれる仕事さえしていればよかったのでしょうが、
パートの職員は、炭鉱の退職者を中心に800人もいました。
さらに、太平洋炭鉱そのものが会社の生き残りを賭けて
さまざまな新規事業に取り組み始めていた時期でしたから、
新しい仕事を求めてどんな畑違いの仕事でも取ってきました。
もともと誰とでもすぐに友達になれる得な性格でしたし
組合時代に、交渉のテクニックが身に付いていたのでしょう。
就任時に1億3000万円ほどだった売り上げは、退任時には9億円になっていました。
自分でもセールスや営業マンとしての能力があるとは思っていませんでしたし、
出向を命じた本社自体が、誰より驚いたのでしょう。
決して順調なことばかりではありませんでしたが、
炭鉱の外の世界を知ることができましたし
多くの新しい友人もできるなど、得難い経験ができたと今では感謝しています。
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